曹操は、どうやって兵力10倍の袁紹に勝てたのか?

曹操是如何战胜兵力10倍于自己的袁绍?

「天下分け目の決戦」といえば、わが国の関ヶ原の戦い(1600年)が有名だが、そのちょうど1400年前の西暦200年、中国大陸北部でも有名な決戦があった。『三国志』の英雄・曹操が10倍の兵力差を覆して、宿敵・袁紹(えんしょう)を打ち破った官渡(かんと)の戦いである。曹操はいったい、どのようにして勝利できたのか。正史『三国志』をもとに紐解きたい。

说到“分天下的决战”,我国的关原之战(1600年)很有名,而正好在其1400年前的公元200年,中国大陆北部也有著名的决战。这就是《三国志》的英雄曹操颠覆10倍兵力差,打败宿敌袁绍的官渡之战。曹操到底是如何取得胜利的。接下来我将以正史《三国志》为基础进行解读。

後漢の流れを決定づけた「天下分け目の戦い」

决定了后汉走向的“分天下之战”

袁紹は、大陸の河北地方に強大な勢力を誇った名族。対する曹操は当時、河南地方を制して帝(献帝)の擁立にも成功、日の出の勢いだった。黄河の北を治める袁紹、南を治める曹操という二大勢力が、ぶつかり合ったのが「官渡の戦い」である。
両者の兵力には大きな開きがあった。正史『三国志』(魏志)によると、袁紹軍は数10万の兵力から選りすぐった歩兵10万、騎兵1万。一方の曹操軍は1万未満と記されている。およそ10倍の差があったというのだ。曹操軍の数は「もっと多かったのでは?」という異論も早くからあるが、劣勢には違いなかったのだろう。

袁绍是一个在大陆河北地区拥有强大势力的名族。与此相对的曹操在当时成功地控制了河南地区,拥立了皇帝(献帝),呈现出头的势头。治理黄河北面的袁绍,治理南方的曹操这两大势力相互冲突的就是“官渡之战”。
两者的兵力有了很大的差距。据正史《三国志》(魏志)记载,袁绍军从数十万兵力中选拔出步兵10万,骑兵1万。另一方面,曹操军队记载不足1万。据说有大约10倍的差距。虽然早就有关于曹操军队的数量可能不止这些的争论,但肯定是劣势的。
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はたして、戦局は数で勝る袁紹軍が序盤から圧倒した。黄河を越えて迫る袁紹軍に対し、曹操は得意の奇襲をしかけて対抗。緒戦の白馬で袁紹軍の武将・顔良(がんりょう)を倒し、延津では文醜(ぶんしゅう)を討ち取った。
それでも兵力差は覆せず、曹操はじりじり後退。一時は確保した延津も守り切れず、官渡まで下がった。ここを突破されれば、南の許都(曹操が保護した献帝がいる都)も危機に陥るという、まさに背水の地であった。
ここでも袁紹は数の利を生かし、東西数十里にわたって陣を布き、少しずつ前進。奇襲も封じられ、曹操は官渡の砦に立て籠もるよりほかに術がなくなった。

而结果是,在战局上,以数量取胜的袁绍军从一开始就压倒了他。面对越过黄河逼近的袁绍军,曹操发起了他擅长的奇袭来对抗。初战在白马打败了袁绍军的武将颜良,在延津讨伐了文丑。
尽管如此,兵力之差仍无法改变,曹操逐渐后退。一时确保下来的延津也守不住了,到官渡就更少了。如果这里也被突破了的话,南方的许都(曹操保护的献帝所在的都城)也会陷入危机,可谓是背水一战。
袁绍在这里也发挥了几分优势,在东西数十里布阵,一点一点地前进。曹操的 奇袭也就被封印了,曹操除了在官渡的城里呆着以外没有其他的术了。

弱気になるも、軍師の助言で好機を待つ

即使胆怯,也要在军师的建议下等待时机

戦いは半年におよび、曹操軍は兵糧が不足する。少数の側が兵糧不足とは意外な現象だが、曹操の領地は相次ぐ戦乱で荒廃しきっていた。この兵糧不足は数年来つづいており、それが兵数の不利につながっていたのかもしれない。さすがの曹操も弱気になって撤退を考え始める。
しかし、軍師・荀彧(じゅんいく)の手紙が彼を思いとどまらせた。
「むかし、劉邦と項羽は対陣し、先に退くことを嫌いました。退いたほうが屈服を余儀なくされるからです。この戦いも対陣して半年になります。今にも変事が起きますから、奇策を用いる時期を逃してはいけません」(荀彧伝)

战争持续了半年,曹操军队的军粮不足。虽然少数人的一边军粮不足是一个意外的现象,但曹操的领地在接二连三的战乱中荒废了。导致军粮不足的这种情况持续了数年,这也许也是兵力少的原因之一。就连曹操也变得懦弱,开始考虑撤退了。
但是,军师荀彧的信让他打消了念头。
“很久很久以前,刘邦、项羽没有人肯先退一步,因为撤退了就会被迫屈服。这场战斗对阵已经半年了。现在也会发生变故,所以不能错过使用奇策的机会。”(荀彧传)

冒頭に書いた通り、この戦いが「天下分け目」とされる重要なものであったことが、荀彧が発した「是天下之大機也」(武帝紀)という言葉からも推し量れる。
それに従った曹操は、粘り強く対陣を続けた。やがて袁紹軍の輜重隊(しちょうたい/補給部隊)の場所がわかった。敵の参謀が寝返って、情報を知らせに来たのである。側近たちは「策略では?」と疑うが、曹操はみずから5000の騎兵を連れて強行に出る。大ばくちだったが、この一瞬の機を突いた奇襲に1万の敵守備隊は慌てふためいた。

正如开头所写的那样,从荀彧所说的“是天下之大机也”(武帝纪)一话中也可以推测出这场战争是被视为“分天下”的重要一环。
而遵循了他的话的曹操顽强地继续对阵。没多久,曹操军就找到了袁绍军的辎重队(补给部队)。而且袁绍军谋士许攸倒戈,建议曹操轻兵奇袭乌巢,曹操自己带着5000名骑兵强行前往。虽然是一个大赌局,但是在这一瞬间的突袭下,一万兵力的敌军守备队慌了手脚。
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曹操は敵将を斬り、兵糧をことごとく焼き払った。袁紹も援軍をさしむけたが間に合わず、動揺が全軍に広がり、寝返りが続出して瓦解。圧倒的不利を覆した曹操の勝利であった。
敗れたとはいえ、なお袁紹軍には広大な領地と多くの兵力があった。しかし、天命が曹操に味方した。袁紹は2年後の202年に病死したのである。官渡の敗戦の影響で、袁紹の領地では反乱が頻発。その鎮圧に手を焼き、神経をすり減らしたものとみえる。曹操は袁紹の残党や河北の諸勢力を5年かけて討伐し、207年には中国大陸の北半分を統一。のちの王朝「魏」の基盤を築くにいたった。

曹操斩断敌将,将军粮全部烧毁。袁绍也派出援军,但为时已晚,动摇蔓延至全军,随之便是瓦解。这就是颠覆了压倒性不利条件的曹操的胜利。
虽然战败了,但袁绍军还是拥有广大的领地和众多的兵力。然而,天命却站在了曹操这边。袁绍在两年后,也就是202年病死了。受官渡战败的影响,袁绍领地多次发生叛乱,也许是在棘手于如何镇压,导致神经紧绷。而曹操用5年时间讨伐了袁绍的余党和河北的诸势力,207年统一了中国大陆的北半边。建立了后来的王朝“魏”的基础。

袁紹の「まさか」の敗因

袁绍“意想不到”的败因

戦後の袁紹陣営からは多くの書簡が発見された。それは袁紹に内通を約束する密書の数々であった。曹操が終始劣勢だったためであろう。中身をみれば誰が裏切ろうとしたか一目瞭然であったが、曹操はそれをすぐに焼き捨てさせた。ホッと胸をなでおろした者は多かったに違いない。
それだけ有利とみられていた袁紹は、なぜ敗戦を喫したのか。曹操軍と同じく、袁紹陣営にも有能な参謀や将軍は何人もいた。とくに参謀が多く、田豊(でんぽう)、沮授(そじゅ)、審配(しんぱい)、郭図(かくと)、許攸(きょゆう)などが代表格だった。袁紹は彼らの意見をよく聞いていたが、名門ゆえのプライドか、次第に好き嫌いが激しくなり諫言に耳を貸さなくなった。とくに田豊や沮授、許攸は袁紹に煙たがられ、遠ざけられている。

战后袁绍阵营发现了许多书信。那些都是与袁绍勾结的许多密书。大概是因为曹操始终处于劣势吧。只要看一下内容,谁背叛了就一目了然,但曹操马上就把它们烧掉了。一定有很多人因此松了一口气。
被认为是有利的袁绍,为什么吃了战败。和曹操军一样,袁绍阵营也有几位很有能力的参谋和将军。特别是参谋很多,田丰、沮授、审配、郭图、许攸等都是代表。袁绍一开始还很好地听取了他们的意见,但也许是由于名门的自负吧,渐渐地就会挑三拣四,不听忠告了。特别是田丰和沮授、许攸被袁绍敬而远之。

また袁紹の息子たちも仲が悪く、一枚岩ではなかった。彼らの派閥はそれぞれに違う意見を唱えて対立した。こうした内部抗争のなか、袁紹に遠ざけられた許攸が曹操に寝返って情報を漏らし、敗北につながったのである。
決して無能ではなかった袁紹だが、ひとえにその強大な組織を統制しきれなかったのだろう。また彼には天運もなかった。あと数年、長く生きていれば再び勢力を立て直し、曹操が敗れていた可能性も充分に考えられたであろう。

袁绍的儿子们也关系不好,没有齐心。他们的派别因为各自提出了不同的意见而对立。在这样的内部斗争中,被袁绍疏远的许攸回到曹操身边泄露了情报,导致了失败。
袁绍并不能称作是无能,但是他无法完全控制那个强大的组织。又没有天命。再过几年,如果袁绍活得比较久的话,再次重整势力,曹操失败的可能性也是有的。